「欲望だらけの私がどうすれば悟りを開けますか?」に対する私の回答

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たまに、こんな質問を投げかけてこられる方がいらっしゃいます。

「どうすれば悟りを開けますかね?」

「悟りの境地にいたるには、どうしたらいいですか?」

 

このような質問をこれまで私に投げかけてきた人は、ほぼ全員、私の友人だったり、個人セッションをお受けになったクライアントさんです。

なので、いたって真面目な質問なんです。
そして、私の人となりやこれまでの経験・背景などをご存じです。

 

ですから、私のことを「悟りを開いた人」「悟りの境地にいたった人」と思って質問しているのではないです。笑

 

この質問は、よもやブッダやキリストレベルの聖者聖人になりたいという意味の質問ではありません。(仮にそうだったら、聞く相手を間違えてます。笑)

そうではなくて、

「“悩まない人”になるためには、どうしたらいいですか?」

「悩みや他人に振り回されず、どっしりと軸をかまえて、ブレずに生きていくにはどうしたらいいですか?」

という主旨のことをお聞きになりたいのだろうと思います。

とすると、仏教用語でいうところの「煩悩(ぼんのう)」を手放したい、ということのようです。
(なぜ仏教用語を出してきたかというと、質問者がわざわざ「悟りを開く」とか「悟りの境地」という単語を選んでいるからです。)

欲と煩悩は違う

さて、私も過去に仏教をかじったものとして、当時の在家僧侶の先生から教わった非常に印象に残っている言葉があります。それは

欲と煩悩は違う

というもの。

 

欲というのは、人間が生物として備えているものであるほか(食欲・性欲・睡眠欲etc.)、人間を人間たらしめているもの(知識欲・承認欲etc.)でもあります。

人間として、欲があるのが当然なのです。

もしも欲がなくなってしまったら、人間は

  • 肉体と心と精神とをバランスよく保って生きていくことができなくなります。
  • 成長しようと励むこともできなくなります。
  • よりよい社会を作ろうと協力したり努力したりすることもなくなります。

だから、欲はあっていいのです。(むしろ、欲はあるべきです)

 

でも、その欲が肥大化して、本人がその欲にとらわれてしまう状態になったときに、それは「煩悩」と呼ばれます。

「煩悩」は、その字のとおり「なやみ・わずらうこと」です。

◎◎がしたい、◎◎がほしい、という欲望に執着してしまって、あれこれと思いわずらうことが煩悩です。

 

だから、冒頭のご質問は、くだけた表現に言いかえると、

「◎◎がしたい、◎◎がほしい、という欲望」について

  • 執着しないようにするには、どうしたらいいですか?
  • 暴走しちゃうとき、暴走を消し去るにはどうしたらいいですか?
  • うまくコントロールするにはどうしたらいいですか?

ということを、主にお聞きになりたいようです。

欲望に執着しないようになるには、どうしたらいいか?

これについてですが、私からの回答はきわめてシンプルです。それは、

欲望をぜんぶ棚卸し(たなおろし)して、「欲まみれの自分」をただ見て、それも自分だなと受け入れること

です。

そもそも、欲望を、「いけないもの」だと思っているから、ヘタに隠そうとしたり封印したりしようとするのです。これが大間違いです。上で書いたように、欲はあっていいものです。

 

欲望というのは、閉じ込めて禁止しようとすればするほど、膨れ上がります。

  • 忘れようとすればするほど、別れた恋人のことが忘れられない。
  • 食べちゃいけないと我慢すればするほど、ダイエット中・ダイエット後にドカ食いしてしまう。

など。誰にでも思い当たるふしがあるのではありませんか?

また、「◎◎したくない、◎◎がほしくない」も欲望です。会社に行きたくない、あの人に会いたくない、などですね。行かなくちゃいけない…と自分で自分に命令しているので、行きたくない気持ち(欲望)を禁止しているのです。

でも、このように抑え込もうとするからこそ、逆に執着になって、欲が暴走してしまうのです。

欲望を棚卸しをするとは何か?棚卸しをしたらどうなるか?

欲望を棚卸しするとは、自分の中の欲望を(禁止してるものもしてないものも)全部一度ずらっと紙に書きだすなり、頭のなかででも挙げてみるなりすることです。

どうせ誰に見られる・聞かれるわけでもないのですから、とことん「欲まみれの自分」と向き合ってみましょう。

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欲望の棚卸しをし始めると、最初のうちはけっこう「ゲスい自分」が出てきます(笑)実際やってみると分かりますよ。

性欲全開な自分とか、物欲全開な自分とか、攻撃的で怠惰な自分とかが登場します。これは、そういうもんです。気にしないでいいです(笑)。

それでもひとしきり、棚卸しをし続けてみてください。

 

続けていくと、だんだん、欲望の強さが変わりはじめます。具体的には、欲望を数多くあげればあげるほど、「ひとつひとつの飢えてる感じ」が消えていくのです。

最初のうち「高級ブランドをたくさん買い漁りたい」「飽きるほどお金を使いたい」とか出てきても、それらを「紙に書く」「しっかりイメージする」という【形にする作業】をするだけで、渇望する度合いが落ち着くのです。

 

これはなぜかというと、その欲望を自分のなかから取り出して形にしたことで、欲望が叶った気持ちが自然と味わえるのです。(錯覚といえば錯覚なんですが)

そして、表現やフレーズを変えて何度も出てくる欲望は、あなたにとって「どうしてもかなえたい強い欲望」だということが分かります。

ならば、それはすでに「欲望」ではなく、ビジョン・目標」になります。抑えこもうとするより、かなえるために行動を起こしたほうがよほど健全なのではありませんか?

 

逆に、「他人が持ってるから」というだけの理由で自分もほしかったけれど、よくよく考えてみると、それほど欲しくないかも…という欲望も分かってきます。

「欲望を禁止する理由」と「最悪の未来」を疑ってみる

さて、棚卸しをして欲望を書ききっても、まだ解決していないことが1つあります。

それは、「欲望を持つことを禁止している自分がまだ残っている」ということ。

 

棚卸しをしている最中は、あえて「禁止ストッパー」を外しておこなってもらったわけですが、いざ「欲望」をかなえようと考えはじめたり、行動を起こしたりしようとすると、途端に「禁止ストッパー」が働きます。

 

たとえば、性欲全開の自分が出てきたとして、その欲望を認めてかなえようとしてしまったら、下手をすると異性を暴行してしまうのではないか?という恐れが出てくるかもしれません。

ほかにも、

  • 物欲全開な自分を認めてしまうと、一気に破産まっしぐらなんじゃないか?
  • 食欲全開な自分を認めてかなえようと考えたら、とんでもないデブになってしまうんではないか?
  • 美しくなりたい欲望を追求したら、全身整形しようとしちゃうんじゃないか?

などなど。

このように、『最悪の未来』を予想するから、欲望を禁止しようとしているわけです。

 

でも、考えてみてください。

  • 最悪の未来は、本当に起こると思いますか?(例:異性暴行なんて、本当にすると思いますか?)
  • 最悪の未来は、本当に最悪なんですか?(例:全身整形は、どうして最悪ですか?デブは、なぜダメですか?)
  • 最悪の未来を考えなくても、欲望をかなえることはできるんじゃないですか?(例:物欲を全部かなえるくらい、お金を稼ごうと考えませんか?)

このような、発想の転換や視点の転換がすごく大事です。

 

『最悪の未来』が、単に「想像上の恐れ」ならば、その恐れを乗り越えていけばいいだけですし、『最悪の未来を避けたい』という欲望を、立派な欲望の1つとして育ててもいいのです。

 

このような作業をずっとし続けていくと、本当に欲しいものが何なのか分かります。

悟りの境地に達することができるかどうかは分かりませんが(笑)少なくとも、「どうしたら悟りの境地に達することができるか?」と悩むようなことはなくなるはずです。