私のディバイン・タイミングと死の扉。どのように迎え、越えてきたか。

今日の記事は、がっつりシータヒーリング®の内容です。

先日、シータの「豊かさと願いの実現」セミナーを開催しました。
(私にとっては本セミナーはこれが初開催。そして、もしかするとこれが最初で最後のマンツーマン豊かさセミナーです。)

豊かさと願いの実現テキスト

このセミナーにおいても、「ディバインタイミング(神聖なタイミング)」はじっくり説明があり、これをペアワークで見る演習をおこないます。

ディバイン・タイミングとは何か?

ディバイン・タイミング(神聖なタイミング)は、人生のゴール(宿命・天命)と絡めて最近とみに創始者ヴァイアナさんが語ることの多い、シータヒーリング的にとても重要なテーマです。

それは、この人間界(第3層)での人生を送るうえで到達したい目的やゴールと深く関わっていて、ここに来る前に「すでに決めてきた」タイミングです。

そして、私はつい最近(といっても、いまから約1年前ですが)このディバイン・タイミングを迎え、そして完了させました。

私のディバイン・タイミング

ディバイン・タイミングは「イベント」であり、往々にして「プレ・イベント」もあるとヴァイアナさんは語りますが、まさしくその通りです。

私がここを通り抜けるために、何人ものソウルメイトやソウルファミリー、守護的な存在が集結し、私を後押ししてくれたとはっきり感じています。

 

今回の私のディバイン・タイミングは、「①三男の妊娠発覚」「②師と仰いだ人への決別」にともなって、【人生の責任と主導権をはっきり自分に取り戻した瞬間】でした。

ちなみに、具体的な日にちは2016年1月20日です。

死の誘惑についての誤った理解

イメージ画像

私はディバイン・タイミングの直前に、何度も何度も、「死の誘惑」に直面していました。

 

それまでの私は「死の誘惑」とは「乗り越えるべきもの」という理解しかなかったのです。

以前学んだことのあるチャック・スペザーノ氏のヴィジョン心理学においても、
「死の誘惑」は自立 ⇒ 相互依存へとステージ進化する、「自立ステージ最後のゾーン」として語られていました。

つまり、真に死ぬわけではない、と決めてかかっていたのです。

 

しかし、私にとってこのイニシエーション(儀式)の本質は、「死の誘惑」を前にして

死を選んでもよい。
それを選択することも、(死なないと選ぶのと同様に)自由意志の範疇にある。

と、自らに許可することに他ならなかったのです。

実際、私は死の淵に立って、足元の真っ暗闇を覗きこんでいました。

過去生から持ち越してきた学び

死の淵に立ちながら私が知ったのは、

  • 私はそれでもこの地球に望んで選択して降りてきたのだ

ということ。そして、

  • 私は過去生においてかつてこのように死の淵に立ち、実際に死を選んだということ。
  • それゆえ、同じ人生を二度生きたことがある、ということ。

この過去生の話は、とあるセッションを受けていた時に、自分で過去生ビジョンを見に行って目撃したことです。

 

私は過去生においてとある南国の島の統領だったのですが(そのときも女性だったので、女統領だったようです)政治家として民衆をまとめることができず、絶望して死を選びました。

死の誘惑に負けたのです。

ところが、私は「やるべきこと」をやらずにその人生を強制終了させたので、その課題を完了させるために、まったく同じ人生を送る羽目になりました。

二度目もまったく同じシチュエーションが用意されているので、今度は死を選ぶことなく、困難を乗り越えてその生を終えました。
(二度目もやっぱり死にたくなるのですが、死んでもまた同じだと知っているので選べないのです。)

 

この、「二度のやり直し」を私が目撃し、その女統領(といっても私自身)が力強く生きぬく生命力を私に与えてくれたのは、まさしくディバイン・タイミングを迎えるプレイベントでした。

do over という概念を教えてくれたクライアント

ところで、それに先立って、とある個人セッションのクライアント様から「do over」という概念を教えてもらっていました。

これは訳すると「生き直し」なのですが、人がまったく同じ人生を何度もやり直す(複数回生きる)ことを指します。

私たちの生きるこの人間界では、時間は「過去→現在→未来」と一方通行にすすみますが、「do over」の概念では、「逆戻り」や「同時進行」がアリということで、パラレルワールドと重なった概念と言えそうです。

 

私が自分の「二度目の生き直し」を目撃したとき、

「ああ、これがdo overか。」

と思いながらだったので、これを教えてくださったクライアント様も、私の人生にとってとても重要な存在だったのでしょう。

死の扉の前での選択は、他人にはどうすることもできない

上で書いたとおり、私にとってこのイニシエーション(儀式)の本質は、「死の誘惑」を前にして

死を選んでもよい。
それを選択することも、(死なないと選ぶのと同様に)自由意思の範疇にある。

と、自らに許可することでした。

 

私が「死の誘惑」に直面して七転八倒して苦しんでいるのを、たくさんの友人ヒーラーが気づいていましたし、助けようとしてくれた人もたくさんいました。

でも、これは他人にはどうしようももない領域です。

死を選ぶも、生を選ぶも、それはすべてその人の自由意志にゆだねられています。

死の扉を開けることが、その人にとって意味がある場合

思えば、私はそれまでの人生で「どうせ死ねない」と絶望していました。それは、他人のために生きてきたからです。

他人のために生きている人は、自分が死んだら迷惑がかかると思っているので、自ら死を選ぶことへの罪悪感がハンパないです。
それを超えて死の扉を開けるということは、いわば

『はじめて自分のために、人生を選択する』

ことにほかなりません。

 

とするなら、その選択も尊重されこそすれ、責められるものではないと私は思います。

ですから、私がもし、いままさに死の扉の前に立ってそれを開けようとしている人がいたとしたら、それを私が私のエゴで止めようとすることはないでしょう。

私にできること

ディバイン・タイミングとイニシエーション(儀式)は必ずしもセットになっているものではないですが、私のようにディバイン・タイミングの前に「強烈な死の誘惑」がやってくる人は少なくないと思います。

私が人のためにできること。それは、

こうして私が「私の在りよう」を見せ続けること。
私自身が人生のゴールに向かって歩き続けること。

極論すれば、それしかない、と思っています。

もしかすると、死ぬ覚悟と同じくらい、自分が自分のために生きることを決めるのは、覚悟がいるのかもしれません。(私の思い込みかも知れませんが。笑)

 

決めきれない…最後の最後、人生の決断をするとき、誰かにこれを話したい。
そんなときに、腹をくくってそばにいてあげられる。
私はそんなヒーラーであろうと思っています。

田中真理子の個人セッション

 

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