スピリチュアル嫌いの私がヒーラーになった理由

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私がスピリチュアル嫌いだったのは、生育環境に由来します。

何故、そんな私がヒーラーなんてものになったのでしょう。笑

「宗教」「信者」に囲まれていた子供時代

私が生まれ育った実家は、代々家業を営んでいて、親戚縁者もみな近いところに住み、人の出入りが多い家でした。

昭和の頃はわりと裕福だったのと、本家としてのプライドもあいまって、大人たちはみんな何やらとてもエラそうな感じでした。

 

そしてなぜか、親や親戚の多くが宗教かぶれでした。よくいえば信心深い、悪く言えば宗教にはまっている…そんな家でした。

(しかも宗教が1つじゃないのです。さらに、家のなかには仏壇も神棚もお稲荷さんの祠もありました。)

本当に、嫌でした。

本当に嫌だったのは、宗教自体ではなく…

嫌なのは、宗教や信仰心そのものじゃないです。

嫌なのは、宗教にはまった大人たちが、あの手この手で私に何かを教えよう・指導しようと迫ってくること。

  • 小学生になれば◎◎道場のようなところに連れて行かれ
  • 肌身離さず持っていなさい、とカードのようなものを渡され
  • 進路はどれを選ぶか?などと判断に迷うときに、お偉いさんにお布施をして回答をもらうよう言われ etc.

強制される、押しつけられる、決めつけられる。
従わないと「良くないことが起こる」と脅される。

それが本当に嫌でした。自分のことは自分で決めたい!と強く思っていたので。

幸せそうではない大人たち

しかも、「感謝が大切」「こうすれば幸せ」と宗教は説くのに、それを押しつける大人たちが幸せそうではありませんでした。

不平不満や文句はたくさん言っていたし、喧嘩はもちろん、嫌な空気や不協和音は蔓延していました。

 

今から思えば、それらも結局は「なにかのせい」にしていたからなのです。

「なにかのせい・だれかのせい」にしている限り、幸せを自分でどんどん創造していくことはできません。

信仰心が問題なのではなく、宗教が幸せにしてくれるという依存的な態度が幸せを遠ざけていたのだろうなと分析しています。

 

「不幸が起こるのは祈りが足りないせい」
「お布施が足りないせい」

そういうことにしておけば、宗教団体は儲かりますから、そりゃあ依存し続けてくれたほうがいいですよね。

信者も、自分の内側に原因を見ないから、真正面から自分自身と向き合わずにすみます。宗教側も信者側もたがいに「WIN-WIN」なのです。

私が完全に拒絶しなかった理由

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でも、私は彼らの押しつけに対して、キッパリNO!と拒絶することはしませんでした。一応、道場などにも行ったし、カードも持ったし、答えを聞きに行くこともしました。

 

その理由も私なりに明確で、

  1. 教義や経典そのものは「真実」を言っている気がすると直観的に分かっていたから
  2. すすめてくる大人たちには悪意がなく、(本人としては)善意で言っているのを知っていたから

です。

 

こうして書いてみると、私のほうこそエラそうですね…。

私は「上から目線」の子供だったので、彼らに対して「付き合ってやってる」と思って接していました。態度にこそ出しませんでしたが。

でも、宗教が宗教団体として布教活動をしていくなかで、どんどん本来の「真実」が変質していく、と思っていたので、

真実なるものは、人の内面にさえ存在していればいい

という自分なりの美学を持ち、既存の宗教や宗教団体とは距離を置くことにしました。

 

その意味では、私が「内面の真実」を強く持つことに、宗教は役立ったのです。

宗教に近い分野を拒否していた時代を越えて

20代、スクールに通って心理カウンセリングを学んでいた時、私が仲の良かった友人は精神世界にも興味を持っていました。

大きい書店では、心理の本と精神世界の本って、割と近いところに配置されてるんですよね。

そして、精神世界と宗教も、やはり近いところにあります。

 

友人たちが、精神世界ジャンルの本を手に取ったりしている間、私はいっさいそのエリアに近づきませんでした。

精神世界に魅入られて、神がナントカ前世がナントカ、フワフワ・キラキラした話で盛り上がるのは、まっぴらごめんでした。

それは、目に見えないものを信じて依存し、現実を創造的に生きようとしない、たくさんの大人たちを見てきたせいです。

 

そして、押し付けられるのはもちろん、私が誰かに押し付けたりするようになるのも想像しただけで恐怖でした。

シータヒーリングをすんなり受け入れた理由

その後シータヒーリング®に出会うことになるのですが、私はなぜかこれをすんなりと受け入れました。

後付けの理由になるかもしれませんが、

  • 自由意志
  • 自由選択権

を、シータヒーリングではこれでもかというくらい語るのです。

これらを侵害して他人を変えることはできない、してはならないとはっきり明示されており、それはどのコースでも徹底されています。

 

また、私にシータヒーリングを教えてくれたインストラクターが「押しつけない、決め付けない」セッションの仕方を徹底的に教えてくれたことも大きいです。

私はかつて、宗教の教義・経典には「真実」が書いてある気がすると思っていましたが、シータヒーリングで学ぶ「真実」は私の直観したそれと似通っていました。

 

なので、シータヒーリングをはじめて学んだとき、「私、これ知ってる」と思ったのです。

そういう意味では、私はずっと真実と思ったものしか欲しくない!という気持ちを追求し続けてきたのだと思います。

(ある友人が、私の名前が「真理の子」なのは、そのまんまだねと笑いましたが、私もそう思います。)

私がきれいごとしか言わないヒーラーを嫌いな理由

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私はシータヒーラーではありますが、

  • 世の中すべての人を、物を、等しく愛しています。
  • どんなものにも感謝しましょう。
  • シータヒーリングを学べば幸せになれます。
  • 創造主は無条件の愛なので、人は必ず幸せになれます。

とは、決して言いません。

 

だって私は人間なので、私の時間や肉体エネルギーには制限があり、好き嫌いも、ポジティブ・ネガティブの感情もあります。

幸せになるもならないも、すべては、その人次第。

シータヒーリングはあくまでツールでしかないと思っているからです。

その人の在りよう、言葉・思い・行動がすべてです。

 

そう思うと、もはや今の私は、スピリチュアルも非スピリチュアルも、何ら違いのないものとして理解しています。

すべてはツール。幸せになるためになら方法はなんだっていい、心からそう思います。

 

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スピリチュアル嫌いの私がヒーラーになった理由” に対して 2 件のコメントがあります

  1. 開野 亘 より:

     こんにちは。

     開野とかいてアケノともうします。

     結局、結論としては何故その道を選んだのか。具体的に何もおっしゃられては居ないですね。

     私にはこう見えました。家庭環境により、様々なものが否定されて、閉ざされてしまった。ご両親は良かれと思ってしたことですが、その「よかれ」としたものに対して、具体的かつ、明確な答え、「生きていくには、何を糧とし、杖とし、武器とすべきか」それを誰一人、あなたにお話しているわけではないと思います。

     教えを鵜呑みにすることが、未熟である人間の性として、謙虚に受け止めるのが神の御心に添うことだと。

     だから、人として考える術も、歩き方すらも神の御心を意識するしかなかった。つまり、孤独の殻に閉じ込められているから、その殻の中に唯一存在するシータヒーリングというものを、生きる糧にするしかなかった。

     飢えて乾いて、その中で唯一口に出来るもの。それが、あなたにとってのシータヒーリングだったように、私の目には映ってしまいました。

    1. Mariko Tanaka より:

      開野様

      わざわざコメントをありがとうございます

      何度も何度も読ませていただきましたが、申し訳ありませんが私の読解力が足りないのか、いまいち開野様がお伝えになりたいことをよく理解できておりません。

      > 「生きていくには、何を糧とし、杖とし、武器とすべきか」それを誰一人、あなたにお話しているわけではないと思います。

      これはその通りでしょうね。もっとも、私の傲慢さが目や耳を塞ぎ、当時受けとれていなかったという可能性もあります。

      > 教えを鵜呑みにすることが、未熟である人間の性として、謙虚に受け止めるのが神の御心に添うことだと。

      これはいつ誰がそう思ったということですか?

      > 孤独の殻に閉じ込められているから、その殻の中に唯一存在するシータヒーリングというものを、生きる糧にするしかなかった。
      > 飢えて乾いて、その中で唯一口に出来るもの。それが、あなたにとってのシータヒーリングだった

      飢えて乾いていたというのは分かる気もいたします。孤独の殻というのも直感的に理解します。ただ、シータヒーリングがその殻の中に唯一存在するとは、当時も今もまったく思っておりません。というのは、シータヒーリングは、私が「“真実”と信じるに値するもの」に再び出会うチャンスを「たまたま」もたらしてくれた、「手段」であり「きっかけ」であった、というだけだからです。

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