私が「死にたい」と思わなくなったのは、「生きたい」と願ったからではない。
個人セッションやセミナー、イベント等の開催はお休みしていますが、(←2018/6/22再開いたしました)少し前からブログの記事更新は再開しようと思っていました。
というのも、
いくら離れていても、私の頭のなかでは相変わらず
「生きるとは何か?」
「癒しとは何か?」
というテーマについて、ぐるぐると思考が回ってるのです。しかも気づいたら勝手に。
そして延々とそれが続きます。
私はとことん、心理・哲学・思想、またはヒーリングやセラピーの世界を愛しているみたいです。
おそらく、死ぬまで離れられないでしょう。
それはミュージシャンが死ぬまで音楽から離れることができないみたいに。
少し前に、こんなことをつぶやきました。
最近、自分の中の欲望のなさに困ってしまっている。
いや、厳密に言うと、欲はあるにはあるし、きっとその数やジャンルも数えればたくさんあるはず。
ただ、「本当に欲しいか?」という、いわば「渇望度合い」について考え込んでしまい、瞬殺で「やっぱりそうでもないかも」と結論が出てしまう。
— 田中真理子@心理セラピスト (@marikotanaka107) 2018年5月29日
思うに、私がこれまで手に入れてきたものは、どれも「本気で欲しい」と望んだものばかり。
「本気で欲しい」と望めば、確実に手に入ることを知っている。なぜなら欲しいものは絶対諦めないから。逆にいえば、手に入ってないものを数えると、「そんなに欲しいわけじゃないんだな」と分かってしまう。
— 田中真理子@心理セラピスト (@marikotanaka107) 2018年5月29日
欲のなさを自讃したいのではなく、どうすれば欲望を鼓舞できるのか、考えている。
かつて「欲しい」ものを渇望したとき、「手に入っていない」現実を直視して、身悶えていた。でも、残念ながら?私はもう私のために何かを欲しいと思うことがなくなってきてしまっている…殆ど手に入ってしまった感覚。
— 田中真理子@心理セラピスト (@marikotanaka107) 2018年5月29日
このツイートをした時の私は、【ふたたび動き出すためのモチベーション】を探していたのです。
休めば休むほど、スムーズに再開できなくなるんじゃないかと怖かったのです。
車の運転をしばらくしないでいると、運転が下手くそになってしまうように。
現場に身を置き続けることの大事さを知っているぶん、勘が鈍る前になんとか現場に戻らなければ…と思っていました。
ところが、たとえば「お金を稼ぎたい」「◎◎を叶えたい」といった【言語化された明確な欲望】が自分の中に見つかれば、それを燃料にして動けると思うのですが…
まるっきりそんな「欲望」が自分の中に見つかりません。
もしくは、「◎◎を見返したい」というようなネガティブな欲望でも構わなかったのです。ダークな欲望であっても、モチベーションになることはあるので。
でも、探しても見つからない。
それよりも、「満たされてしまっている」ことをしみじみと感じていました。(不思議なのですが、満たされていることをまるで悪いことのように感じていました。)
「欲しいものリスト」を大量に書くことができていた数年前が大昔のようです。だから、焦っていました。
このつぶやきに反応して、友人であり、尊敬する先輩セラピストのまあちゃんがこんな風に言ってくれました。
欲なくて良いじゃんからスタートよ。
— 上田正敏 Masatoshi UEDA (@u_machan) 2018年5月29日
最初は意味がよく分からなかったのですが、この言葉がきっかけになって、「欲望がまるっきり出てこない自分」を、「それもアリ」と受け止められるようになりました。
それから、少しずつ生き方が変わり始めました。
満たされているなら、できるのは感謝しかないやん!
細々と着実に、やるべきことをちゃんとやるしかない!
私が必死で働かなくても生きていけるのは、夫が稼いでくれるから。
私がキリキリと心を痛めずに生活できるのは、子供たちが健康だから。
私が誰のことも恨まずにいられるのは、親をはじめとした多くの人の愛を感じられるから。
こんなに満たされているなら、私は「今やるべきことをちゃんとやる」しかないだろう、と。
それは主に、なんの変哲もない一つ一つの家事育児だったりするのですが。
私はこれまで、ミニマリストやスローライフを提唱する人が好んで使う、「丁寧な暮らし」という言葉が嫌いでした。
なんというか、がむしゃらに必死に生きることから逃げているような気がして。
でも、がむしゃらに必死になるだけの欲望がまるで湧いてこないいま、逃げるどころか、逆に向かっていくように「その日を大事に生きる」というのをあえて試してみようと思ったのです。
すると、すごく矛盾した不思議な感覚なんですが、
欲望がないにもかかわらず「生きようとして生きている」強い実感を感じているのです。
人生のおよそ9割以上が「死にたい」という希死念慮と背中合わせだった私が。
「死にたい」という思いがなくなったのは、「生きたい」と思ったからではなく、欲望が消滅したからかもしれません。
宗教的というか精神世界的な表現をあえてするなら、「祈りのなかで生きる」という感じなのかもしれません。
そして先日、もうひとつのヒントが。
なるほど。
私はこれまで、ビジョンとか、使命とか、目標とか、そういったものを掲げながら(=掲げなければならないと思い込んで)やってきましたが、
ビジョンも使命も目標もいらない
のかもしれない、と思い始めています。
のかもしれない、と。
これはあくまで私のインスピレーションでしかないのですが。