だから、スピリチュアルは嫌われる
40数年の人生で私が確信していることのひとつ。それは、
スピリチュアル(以下略してスピ)を「信じてる人」と「信じてない人」のあいだには、絶望的に深い溝があるということ。
両者が分かりあうことは、ありません。
そして、仲良くなれません。笑
だから私は、スピを信じてない人に向かって、スピを語ることはありません。
彼らにスピを「信じてもらいたい」って思ったことないし、「信じたほうがいいよ」なんて言ったこともない。
やるだけムダだからです。
でも、世の中にはたくさんいるんですよね。
”よかれと思って”
- スピリチュアル的なアドバイスをする人。
- スピリチュアルを布教する人。
- スピを信じてない人に、信じさせようとする人。
これに当てはまる人、衝動にかられる人に、私は強くお伝えしたいです。
やればやるほど、逆効果です。
相手の「拒絶感」を助長するだけです。
もはや、迷惑なアポなし訪問営業みたいなものなので(笑)やめたほうがいいです。
黙して語らず。
どうしても語りたいなら、ブログに書くのが関の山。
(まあ、私は仕事なのでブログ以外でも書きますけれど。)
ブログで一方的に書くだけなら、読みたい人だけ読むので、スピ嫌いの人に迷惑かけません。
SNSで発信を始めると、友人にブロックされることありますよ。先に忠告しておきます。(私、された人です。笑)
「スピを信じてない人」は、だいたい、「スピが嫌い」です。
なんで嫌いか?というと、
- 「スピを信じてハマってる人」
- 「スピを信じてハマってる人の言動」
が嫌い、に行き着きます。
「スピにハマってるヤバい人」がいるせいで、その属性となる「スピリチュアル」が嫌悪対象になるのです。
ヤバい人たちが信じるスピなんて、信じたくなくなるのは当然です。
つまり、スピを信じてハマってる人たちが、世の中の「スピ嫌い・スピ不信」を加速させてるのです。
でも、「スピ嫌い・スピ不信」な人でも、お正月には初詣に行くし、亡くなった方に手をあわせます。
お墓参りもするし、自然への感謝も持っています。
つまり、「目に見えないものへの畏怖や尊重」まで否定するわけじゃない。
「嫌われるスピ」という特定の分野があって、「スピにハマってる嫌われ者」という特定の人種が存在しているのです。
その理屈で行くと、「スピにハマってる嫌われ者」がいなければ、「嫌われるスピ」は存在しなかったでしょう。
「スピを信じる、素晴らしい人」だけが世の中にあふれていれば、スピは愛されたはずです。
でも、残念なことに、スピは嫌われる運命です。
なぜなら、スピのありかたには、構造的・性質的な「欠陥」があるからです。
それは何かというと、
- スピは現実逃避や怠惰のいいわけになる
- スピは洗脳に使われる
- スピは金もうけに使われる
からです。
これらを詳しく解説し始めたら、この記事がとんでもないボリュームになりそうなので、その解説は別記事にします。
かんたんに一言で言って、スピが「怪しい」「危険だ」と考えられる風潮は、過去にスピを悪用・誤用してきた人がいるからです。
人間の恐怖や不安とリンクしやすい概念なのです。
この件について少し触れているのがこちらの記事です。
参考にどうぞ。
洗脳や金もうけについて、後半で触れています。
それ以外の理由として、「オカルト的なものへの恐怖」というのもありますね。
超常現象や心霊現象など、“一般常識”から外れるものを認めたくない心理もはたらきます。
さて、私は冒頭で「絶望的に深い溝がある」と書きました。
そして、「スピを信じてる人」と「スピを信じてない人」は分かりあえない、仲良くなれないとも書きました。
しかしながら、両者が分かりあえて仲良くなれる方法も、実はあるのです。
それは、じぶんの「好き・嫌い」「信じる・信じない」を①相手におしつけないこと、②相手の人格否定の理由にしないこと、の2つです。
自分の考えをおしつけたり、相手の人格否定をしたり…
しちゃいけないと頭では分かりつつ、人間は、すぐこれをやっちゃいます。
たとえば、東京の人が大阪の人を下品で声が大きいとdisったり、
関西人が、関東のうどんはつゆが黒くて食べられないと文句を言ったり。
話がそんな程度で終わればいいですが、そこから発展して、はげしい罵りあいになったり、相手を全否定する言葉が出てしまったりします。
人間は、自分の「好きなもの」「信じるもの」をどこまでも信奉したいし、それを変えたくない生き物なのです。
これは「自己愛」の一面とも言えます。「自己愛」は、排他的な側面があるのです。
でも、そもそも、大阪の人でも下品じゃない人はたくさんいるし、
関東にも美味しいうどんを出すお店はたくさんあります。
スピも、同じです。
「スピにハマってるヤバい人」もいますが、「ヤバくない、素晴らしいスピリチュアリスト」もたくさんいるのです。
素晴らしいスピリチュアリストは、スピを現実逃避に使わないし、怠惰でもありません。
他人を洗脳して必要以上の金もうけをしたりしません。
現実世界で成功しながら、精神世界と現実世界を一致させて生きています。
ひとくくりにできない「例外」は、存在しています。
このような「例外」の人の存在を認めて「例外がある」と受け入れられる人は、頭が柔軟で、思考停止しない人です。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、とならない人です。
このような人は、真実を見抜こうとしています。
「スピは嫌いだし信じない。でも、スピを語るあの人のことは、嫌いじゃない」
そんなふうに話す人のほうが、よっぽど、真実を見抜こうとしている時点で、スピに盲目な人よりも素晴らしいと私は思うのです。
そういう人と私はつきあっていきたいし、そういう人に信頼され、嫌いじゃないと言われる私でありたいなと思っていますね。
なぜなら、そんな人は自己愛を持ちつつ、他者の尊重と、固定観念にとらわれない自由な発想を持っているからです。
こちらの記事もどうぞ。↓↓↓
スピリチュアルと愛しあう【前編】~愛するならば作法を守れ~
スピリチュアルと愛しあう【後編】~科学的根拠と私が夢中になる理由~